第一回目はジャコ・パストリアス Jaco Pastorius
1951年12月1日~1987年9月21日 享年35歳
アメリカ ペンシルベニア州
目次
稀代の天才という名にふさわしい人物
その名を知っている方もいらっしゃるとは思いますが、世に名だたるアーティストたちが彼にインスパイヤし、そのスタイルや演奏方法などに影響を受けています。そしてそんなジャコ・パストリアスですが、今日のエレキベースの礎を作ったといっても過言ではありません。
ジャコ・パストリアスという人物
そんな彼について少しお話をしたいと思います。1951年12月1日にこの世に産み落とされました。アメリカ ペンシルベニア州出身の彼は主にザヴィヌル率いるウェザー・リポートやジョニ・ミッチェルとのコラボレートで知られるエレクトリック・ベースの開拓者である。
当時エレクトリック・ベースに革命をもたらした人物であり、彼が亡くなった今日でも世界中に信奉者は多数いる。それまでのリズム楽器であるベースにアンサンブルにおける花形楽器にまで昇華させた魁の人物として歴史に名を残している。
その卓越した演奏テクニックと抜群のフレージング・センスは多くのファンを生み出し、ギタリストにおけるジミー・ヘンドリックと並ぶ存在で、ベーシストの神といった存在でしょうか。
ベーシストなら直接か、または大好きなベーシストが影響を受けているかといったところだ。
生い立ち
幼いころにフロリダのフォートローダーデールに移住した彼は、もともとの音楽との出会いは地元の聖歌隊でした。そこで音楽的要素を身に着けその後、ドラマーとしてスタートさせた音楽人生でしたが、13歳の時にフットボールの試合中に左手首の骨折というケガをしてしまい、ドラマーとしての道を断念。当時所属していたバンドのベースが脱退をしたのを機にベースに転向。そんな選択があるんだなと思いましたが、その後ジャコは驚くほどのスピードでベースが上達し、17歳になる頃にはフロリダでナンバーワンといわれるほどになっていました。高校卒業後は地元でバンド活動をおこなっており、この頃に入手したフェンダージャズベース(1960年もでる)とその後入手したジャズベース(1962年モデル)ネックとボディを入れ替え、理想的なベースを作り上げ使用していた。その後フレットを抜きパテ埋めした後、船舶塗装用のエポキシ樹脂で指盤全体をコーティングして使用していた。実際は著名なギター職人、ジョン・カラザースによって演奏可能な状態に仕上げられている。米国アコースティック社製ベースアンプのModel#360と組み合わせ、自分のベース・サウンドを煮詰めていった。
ウェザー・リポート時代
フロリダにウェザー・リポートのツアーで訪れていたジョー・ザヴィヌルに自分のデモ・テープを渡すなど、ジャコはベーシストとしてバンドに参加したい旨を直接ザヴィヌルへ伝えていた。丁度その頃には2代目のベーシスト、アルフォンソ・ジョンソンが脱退する予定であったため、1975年12月から1976年1月にかけての『ブラック・マーケット』のレコーディング・セッションで、ジャコはザヴィヌル作の「キャノンボール」と自作の「バーバリー・コースト」の2曲にベーシストとして参加した。これ以降、ジャコはウェザー・リポートの正式メンバーとなり、次作『ヘヴィ・ウェザー』以降ではコ・プロデューサーとしてクレジットされるようになった。
ウェザー・リポートでは単なるベーシストとしてではなく、曲提供なども含め、色々な意味での音楽的貢献度は高まっていた。『ヘヴィ・ウェザー』に収録され、ジャコのベース・ソロを聴くことが出来る「ティーン・タウン」では、父親譲りのドラミングも披露しており、後にライブ・アルバム『8:30』のスタジオ録音サイドに収録されている「8:30」でも、ジャコがドラムスを叩いている。来日コンサート時にはステージのオープニング曲としてジャコがドラムを叩いている。『ミスター・ゴーン』ではジャコ色が若干弱まったシンセサイザーとシーケンサー主体の抽象的なサウンドになり、この頃からジョー・ザヴィヌルとの確執が噂されるようになった。これ以降ウェザー・リポートのライブではジョー・ザヴィヌルの楽器類とジャコのベース・アンプの音量が非常に大きくなり、互いが音量でも競い合っているような雰囲気だったため、会場でPAされたサウンドは、ほぼロック・コンサート並の大音量だった。
ウェザー・リポート以外にもトリオ・オブ・ドゥーム (ジョン・マクラフリン、トニー・ウィリアムス、ジャコのトリオ) でのレコーディング・セッションと、トリオ・オブ・ドゥームでのハヴァナ・ジャム出演や、ジョニ・ミッチェルのアルバムとコンサート・ツアーへの参加など、一気に黄金時代を迎え華々しい活躍を続けていた。
トップスターとしての名声と重圧
ウェザー・リポートを脱退したころから少しずつ暗い影が彼を襲い始めます。既にそのころにはトップスターとしての座をほしいままにしていたジャコ・パストリアス。しかし彼は、名声と重圧に悩まされ続けていたのです。キャリア初期はドラッグとアルコールを完全に避けていた彼でしたが、ウェザー・リポート在籍中にこれらを使用するようになっていった。彼の周りの歯車が少しずつずれていっていたのでしょう。そしてアルコールとドラッグによって、徐々に心も体も蝕まれていっていたのです。
ウェザー・リポート脱退後、ジャコの生活は荒れ、コカインにおぼれたり、双極性障害に悩まされる日々が続きました。既にそのころには彼の奇行が目立つようになり、1986年の時点では彼の精神状態はさらに悪化の一途をたどるものでした。アパートを追い出された後は路上生活を送っていた。この年の6月には前妻のイングリッドの助けを得て精神病院に再び入院するが、年末には再び路上生活に戻っている。
天才の最後
1987年9月11日、地元フロリダ州にあるフォートローダーデールという都市に来ていたサンタナのライブに無許可で飛び入りしようとしたところ、警備員に取り押さえられ、会場から追い出されてしまった。翌日の未明に「ミッドナイト・ボトルクラブ」という店に泥酔状態で入店しようとしたところ、空手技能を持ち合わせたガードマンと乱闘になる。乱闘の際、コンクリートに頭部を強打、脳挫傷による意識不明の重体に陥ってしまった。
その後病院に搬送された彼は昏睡状態が続いて一向に意識回復などの兆しがみられず、植物状態としてかろうじて心臓だけは動き続けていた。親族による話し合いの末、ジャコの父親であるジャックにより人工呼吸器が外され、1987年9月21日、21時25分、親族と病院関係者らが見守る中、永眠。彼の生まれ故郷であるフロリダの地で35年9か月あまりの生涯を閉じた。
演奏スタイル
ベースを弾く際、基本的に右手のポジションはブリッジ側ピックアップの上端に親指を乗せ、人差し指と中指を伸ばした状態のままで指の付け根を軸にして弾き、早いパッセージにも対応できる奏法をとっていた。ソフトな音色が必要とされる時などはネック終端に親指を乗せたそのポジションで弾いたり、いわゆるスラップ奏法はやらなかったが、パーカッシブなリズムを出す際には、手のひらを指板に弦ごと叩きつける様な奏法も取っていた。ウェザー・リポートの『ヘヴィ・ウェザー』収録「バードランド」や『ナイト・パッセージ』収録「Three Views Of A Secret」のイントロやソロの一節などでは、親指を利用したピッキング・ハーモニクス奏法が随所に使われて、この奏法の場合には必要なハーモニクス・ノート毎に親指で弦に触れる場所が変わるため、曲全体を通すと様々なポジションで弾く非常に高度なテクニックでもある。また、演奏中にボリュームやトーンのノブを細かく調整していることがある。1本のベースから多彩なトーンを得ようとする、ジャコならではの「サウンド」に対する執着心と細やかさが窺える。左手でポジションを押弦した状態から右手でハーモニクスを鳴らし、右手で低音弦の1〜5フレットをタッピングで鳴らす技も披露している。
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